【ゲネプロ】新国立劇場、アルバン・ベルク『ヴォツェック』〈新制作〉を上演!

音楽が描く「社会の裂け目」


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

アルバン・ベルクが唯一完成させたオペラ《ヴォツェック》は、貧困と疎外の中で追いつめられていく一人の兵士を描いた20世紀音楽劇の金字塔である。原作は、実在事件を基にしたゲオルク・ビューヒナーの未完の戯曲《ヴォイツェック》。社会の底辺に生きる者が抱える理不尽と苦悩が、断片的な構成の中に鋭く刻まれている。

ベルクは第一次世界大戦の従軍経験を重ね、1917〜21年にかけて本作を作曲した。無調の枠組みの中に、パッサカリアや組曲、ワルツなど多様な形式を精密に織り込み、冷徹な構造美と情念の噴出を両立させている。「シュプレヒゲザング/シュプレヒシュティンメ」の用法が人物の不安と孤独をむき出しにし、音楽そのものが《裂け目》として観客の前に立ち現れる。

巨匠リチャード・ジョーンズ、東京で初の新演出


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

新制作の演出を担うのは、英国を代表する演出家リチャード・ジョーンズ。オリヴィエ賞9度受賞をはじめ、トニー賞、Opernwelt最優秀演出家賞など、世界的評価を誇る驚くべき鬼才。リチャード・ジョーンズが東京で新演出を手がけるのは今回が初となっている。

大野とジョーンズは、ブリュッセル・モネ劇場《炎の天使》やスカラ座《ムツェンスク郡のマクベス夫人》でもタッグを組んでおり、鋭く心理を抉る舞台は熱狂的な評価を得ている。狂気を主題にした《ヴォツェック》を、ジョーンズがどのように視覚化するのかに大きな注目が集まった。

美術・衣裳はアントニー・マクドナルド、照明はルーシー・カーター。ジョーンズと数々の名舞台を共にしてきた英国の精鋭チームが新国立劇場の舞台に集結した。

トーマス・ヨハネス・マイヤーのヴォツェック


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

本作の主役ヴォツェックを演じたトーマス・ヨハネス・マイヤーは、2009年の新国立劇場公演以来、約16年ぶりに同役にカムバック。長年歌い込んできた役だけに、声と表現力は研ぎ澄まされていた。

冒頭からヴォツェックの精神的な不安定さを体全体で表現し、シュプレヒゲザングを駆使して心理の揺れを微細に描写する。第2幕、妻マリーの裏切りを知った直後の絶望感は圧巻で、声の強弱や息づかいの変化がまるで心臓の鼓動のように観客に迫る。マイヤーの表現は単なる悲劇ではなく、社会の底辺で押し潰される一個人の痛みを生々しく伝え、舞台に強い緊張感を生み出した。

■共演キャストの歌唱


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

マリー:ジェニファー・デイヴィス
ドラマティック・ソプラノの力強さと繊細さを兼ね備え、ヴォツェックとの心理的対比を鮮明に描く。鼓手長との関係に揺れる心情を、伸びやかな声と微妙なフレージングで表現し、舞台上で存在感を放った。

第1幕 聖書を読みながら息子に語りかける場面では、柔らかく深いレガートが母としての包容力を浮かび上がらせる。一方、鼓手長に心を乱される場面では、声の輝きを多層的に変化させ、欲望と罪悪感の交錯を鋭く描写。第3幕での絶叫にも似た内的破綻は圧倒的で、観客の心をえぐる迫真性があった。

鼓手長:ジョン・ダザック
英雄的かつ誘惑的なキャラクターを、テノールの豊かな響きで描く。第3幕でのマリーとの絡みは、声の鋭さと余裕のある演技でヴォツェックの追い詰められた心理を際立たせた。

大尉:アーノルド・ベズイエン
キャラクター・テノールとしての明確な個性を発揮。高音の跳躍や語りのような歌唱が、軍階級の威圧感と傲慢さを見事に描き、舞台にユーモアと恐怖を同時に与えた。

医者:妻屋秀和
安定感のあるバスで威厳と冷酷さを同時に表現。ヴォツェックの苦悩に対する冷淡な態度が、悲劇性を際立たせた。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

音楽・演出の印象


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

大野和士は、ベルク特有の複雑なテクスチュアを緊密に整理しながら、音楽に有機的な生命感を与えた。東京都交響楽団は、金管の鋭さと弦の透明な層が絶妙に拮抗し、ベルクの“音の解剖学”を精妙に描き出した。合唱・児童合唱も明晰で、舞台全体に立体的な奥行きをもたらす。

ジョーンズの演出は心理劇として圧巻で、舞台空間そのものが登場人物の精神を“写し取る鏡”となっていた。最小限の色彩で構成された舞台は、観客の目を人物の内部へと強制的に向かわせる。照明の微妙な陰影がベルク音楽の緊張と呼応し、視覚と音響が一体となって物語の破局へ観客を引き寄せた。

100年後の問いかけ


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

1925年の初演から100年。世界はなお、戦争と分断、貧困と不平等に揺れている。ビューヒナーが描いた“ひとりの兵士の悲劇”は、もはや過去の物語ではなく、私たちが生きる社会の縮図そのものとなっている。《ヴォツェック》は、貧困と歪んだ社会構造が個人の精神を蝕み、犯罪へと追い込む可能性を示唆している。

核心にあるのは、「彼は狂ったのではなく、狂わされていった」という構造だ。今日でも、貧困や労働搾取といった犯罪を誘発する構造が存在する──ベルクの音楽が描くのは、狂気そのものというより、貧困や労働搾取や孤独が人間の内側を破壊していく“痛み”のプロセス。リチャード・ジョーンズの演出は、この痛みを単なる個人の悲劇としてではなく、社会が生み出した闇として浮かび上がらせた。人間の心の奥底に潜む影だけでなく、それを生み出す環境そのものを問う視座を与えている。

■新国立劇場 2025/2026シーズン
アルバン・ベルク
ヴォツェック<新制作>
Wozzeck / Alban Berg
全3幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉

会場:新国立劇場オペラパレス

スタッフ
【指 揮】大野和士
【演 出】リチャード・ジョーンズ
【美術・衣裳】アントニー・マクドナルド
【照 明】ルーシー・カーター
【ムーヴメント・ディレクター】ルーシー・バージ
【舞台監督】髙橋尚史

キャスト
【ヴォツェック】トーマス・ヨハネス・マイヤー
【鼓手長】ジョン・ダザック
【アンドレス】伊藤達人
【大尉】アーノルド・ベズイエン
【医者】妻屋秀和
【第一の徒弟職人】大塚博章
【第二の徒弟職人】萩原 潤
【白痴】青地英幸
【マリー】ジェニファー・デイヴィス
【マルグレート】郷家暁子
【合 唱】新国立劇場合唱団
【児童合唱】TOKYO FM 少年合唱団
【管弦楽】東京都交響楽団

ヴォツェック
新国立劇場のオペラ公演「ヴォツェック」のご紹介。 新国立劇場では名作から世界初演の新作まで、世界水準の多彩なオペラを上演しています。