【公演レポ】日本オペラ協会公演『ニングル』—命の森が問いかける、私たちの未来—

2025年9月20日(土)、東京・昭和女子大学人見記念講堂にて、日本オペラ協会による新作オペラ『ニングル』が上演され、大きな反響を呼んだ。原作・脚本は倉本聰。倉本の代表的なテーマである「自然と人間の共生」が、オペラとして昇華された。指揮は田中祐子、演出は岩田達宗が務め、壮大かつ繊細な世界観が舞台にて披露された。

倉本聰の自然観とオペラ『ニングル』

本作の脚本を手がけた倉本聰は、『北の国から』や富良野塾で知られ、長年にわたって「自然と人間の共生」をテーマに作品を発表してきた。本作『ニングル』もまた、作家としての信念や、自然への敬意と愛情が色濃く反映された一作。倉本が描く自然は単なる背景ではなく、人格を持つ存在であり、「人間側が問われる存在」として描き写される。

「ニングル」は倉本がかねてより執筆してきた物語世界に登場する精霊であり、かつて『ニングル』という短編集でも描かれた。自然を守りながら生きていた小さな民の姿を、倉本は何度も作品の中で繰り返し語ってきた。その世界が、オペラという新たな形で昇華されたことは、作家人生の一つの到達点とも言えるだろう。

倉本聰は、人間中心的な考え方に疑問を持ち、自然と共にある暮らし、調和を大切にする姿勢を強調している。また、現代社会がもたらす「便利さ」の裏にある環境破壊や資源の浪費に警鐘を鳴らしている。倉本聰の自然に関するメッセージは、単なる「環境保護」ではなく、人間の生き方そのものへの問いかけでもある。

森か、豊かさか——揺れる若者たちの運命

物語の舞台は北海道・富良野岳の麓にある開拓者の村「ピエベツ」。そこで農地拡大のために森の伐採を進める若者たち。中心人物である勇太(ユタ)と才三は、村の将来のために森を切り開くべきだと信じて疑わなかった。

しかし、森に棲む小さな精霊「ニングル」と出会った才三は、自然を破壊することの重大さに目覚める。一方でユタは「ニングルなど信じない」と突き進む。やがて二人の間に大きな亀裂が生まれ、村もまた、大洪水や水不足といった自然の報復に見舞われていく。

自然の声を聞こうとする者と、経済的な“豊かさ”を求め続ける者。その対立がもたらす悲劇と再生の物語は、観客の心を深く揺さぶった。

豊かさを求める先にあったもの

自然を破壊した代償として、村は洪水や水不足といった災害に見舞われます。この展開は、まさに現代社会が直面する課題と重なります。近年、日本各地で推進されている太陽光発電施設による森林伐採もまた、同じ構図を持っています。「再生可能エネルギー」という名のもとに、大規模な森林伐採や山林の造成が行われ、生態系の破壊や地球温暖化、土壌汚染、土砂災害のリスクを高めている。

村人たちが「農地が広がれば豊かになる」と信じていたように、現代の私たちは「クリーンなエネルギー」という言葉に隠された負の側面を見過しがち。オペラ『ニングル』は、こうした「目先の利益」が招く悲劇を、登場人物たちの葛藤と運命を通して鋭敏に描き出している。

名シーンとキャストの熱演

本公演の白眉となったのは、第1幕ラストで披露された才三(海道弘昭)による魂のアリア。ユタや妻・ミクリに責められ、伐採に向かう心の葛藤と痛みがにじみ出た名演だった。「聞こえないはずの音が聞こえる」ようになっていく中で、自責の念と絶望、そして森への祈りが織り交ぜられた表現は、海道の深い音楽性とドラマ性の高さを実感させた。木を伐り、自らその木の下敷きとなって命を絶つ——その壮絶な決意と儚さに、会場では涙する観客の姿が多く見られた。

主演のユタ役・須藤慎吾は、信念に揺れながらも仲間や家族の未来を見据えようとする若者を力強く表現。才三と対立しながらも、彼の死によって何かを悟る変化が丁寧に描かれていた。才三の死と自然の報復を経て心を動かされていく勇太の姿を、歌のニュアンスで丁寧に表現。終盤、森でスカンポやニングルと向き合う場面での繊細なフレージングが印象的だった。

かつら役の佐藤美枝子は、天から見守る存在として、作品に母性と霊性の両面から深みを与えた。ミクリ(別府 美沙子)は、夫の死に直面し、泣き崩れながらも生を受け入れていく姿が胸を打つ。

スカンポ(中桐 かなえ)は、言葉を話すことができないという設定ですが、森の声、風の音、そしてニングルの言葉を聴くことができる唯一の存在。発声の制約がある中で、中桐は細やかな身体の動き、視線、呼吸感を通じて、観客にスカンポの「内なる声」を伝えた。光介(杉尾 真吾)は、自らの過ちと、それを悔いる気持ちを吐露するアリアが最大の見せ場。民吉(久保田 真澄)は、感情のこもった語りと、自然な歌唱への移行が極めてなめらかだった。

ニングルの長(江原 啓之)は、言霊として響くような声と存在感が秀逸。静かで、抑制された“祈りのような声”を響かせた。発する言葉は、観客に向けてというより、森そのものに語りかけるような響きを持ち、人間の外側にある“自然界の意志”の代弁者として描かれた。

舞台演出と音楽:風が語る声なき声

演出を手がけた岩田達宗は、深いテーマを象徴的かつ明快に伝えた。冒頭とラストに登場する「風の音を起こす道具」が印象的。最初は“聴こえない者”が大半だったが、物語の終盤にはすべての登場人物、そして生まれた赤ん坊までもが「風の声=自然の声」に耳を傾けるようになる演出が深い感動を呼んだ。

森林伐採のシーンでは、「森の木々の精」として登場する4人のダンサーが中央でうずくまる姿が痛ましく、破壊されていく自然の姿を象徴。田中 祐子 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団による音楽も荒々しい響きで、自然と人間の衝突を体感させた。

終演後の総スタンディングオベーション

終演と同時に客席からは鳴りやまぬ拍手と、長いスタンディングオベーションが巻き起こった。それは本作がただのフィクションではなく、「現代の私たち」への問いかけだったからに他ならない。

「未来につなげ、生命(いのち)の木」
「昔に返せ、俺たちの森を」
「今からでも遅くない。もう一度あの頃の森を取り戻すのだ」

これらのメッセージが、観客一人ひとりの心に静かに、深く根を下ろしていった。

■日本オペラ協会公演「ニングル」
Ninguru
オペラ全2幕〈字幕(日本語/英語)付き原語(日本語)上演〉

日時:2025年9月20日(土) 14:00開演
場所:昭和女子大学人見記念講堂

出演者・スタッフ:

勇太(ユタ)        須藤 慎吾
才三           海道 弘昭
かつら          佐藤 美枝子
ミクリ(ミク)      別府 美沙子
スカンポ         中桐 かなえ
光介           杉尾 真吾
信次           黄木 透
民吉           久保田 真澄
ニングルの長(カムイ)   江原 啓之
かや           丸尾 有香
信子           佐藤 恵利

合唱  日本オペラ協会合唱団
管弦楽 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

日本オペラ振興会総監督   郡 愛子
指揮            田中 祐子
演出            岩田 達宗

合唱指揮         河原 哲也
美術           松尾 紘子
衣裳           下斗米 大輔
照明           大島 祐夫
振付           古賀 豊
舞台監督         伊藤 潤
副指揮          鏑木 蓉馬、森田 真喜
演出助手         三浦 奈綾

ニングル | JOF 公益財団法人日本オペラ振興会