モーツァルト・オペラの生命力 ― 新国立劇場『ドン・ジョヴァンニ』

2026年3月5日、東京・初台の新国立劇場オペラパレスにて、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの傑作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』が上演された。指揮は飯森範親、演出はグリシャ・アサガロフ。主要キャストにイタリア出身歌手を多く配した本公演は、イタリア語オペラとしての原点を思わせる響きと、緊張感あるドラマが印象的な舞台となった。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

放蕩者ドン・ジョヴァンニの物語

1787年に作曲された『ドン・ジョヴァンニ』は、伝説的な色事師ドン・ファンの物語をもとにしたモーツァルトの人気作。貴族の娘ドンナ・アンナに忍び込んだ主人公ドン・ジョヴァンニが騎士長を殺害したことから物語は動き出し、数々の女性を誘惑し続ける放蕩の末、最後には石像となった騎士長の亡霊に地獄へ引きずり込まれる。

ヴェネツィアに移された舞台設定


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

今回の演出では舞台をスペインのセヴィリアから18世紀のヴェネツィアへ移し、主人公を伝説の色男カサノヴァになぞらえる設定。第1幕冒頭ではドン・ジョヴァンニと従者レポレッロがゴンドラで登場し、ヴェネツィアの退廃的で華やかな空気を舞台上に立ち上げた。

ヴィート・プリアンテが体現した魅惑の主人公


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

タイトルロールのドン・ジョヴァンニを歌ったのは、イタリア出身のバリトン、ヴィート・プリアンテ。ナポリ生まれのプリアンテは、大学でドイツ文学とフランス文学を学んだ後に本格的に声楽の道へ進み、2002年にイタリアでデビュー。バロックからモーツァルト、ベルカントに至るまで幅広いレパートリーで活躍する実力派で、ヨーロッパ各地の歌劇場で高い評価を得ている。

『ドン・ジョヴァンニ』の主人公は、伝説的な色事師ドン・ファンをモデルとした人物である。誘惑と放蕩を繰り返す傲慢な貴族は、騎士長を殺害した後も罪の意識を見せず、快楽を追い続ける。モーツァルトはドン・ジョヴァンニを悪漢としてではなく、魅力と危険を併せ持つカリスマ的存在として描いており、歌手には威厳と軽妙さを併せ持つ表現力が求められる。

シャンパンの歌と地獄落ちの迫力


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ドン・ジョヴァンニ役のプリアンテは、その複雑なキャラクターを艶のあるバリトンで鮮やかに体現した。印象的だったのは、軽快なリズムで歌われる「シャンパンの歌」。勢いのあるフレージングの中でも音楽的なスタイルが崩れることなく、洗練された響きを保っていた。また、終幕の「地獄落ち」の場面では、恐怖に屈することなく自らの生き方を貫くジョヴァンニの姿を堂々と歌い上げ、主人公の持つ反逆的な英雄性を際立たせた。

終幕の「地獄落ち」の場面では、恐怖に屈することなく自らの生き方を貫くジョヴァンニの姿を堂々と歌い上げ、主人公の持つ反逆的な英雄性を際立たせた。石像となった騎士長の亡霊が現れると、舞台全体の照明は暗転し、不気味な低音を響かせるオーケストラとともに緊張感が一気に高まる。ジョヴァンニが最後まで悔い改めることを拒むと、激しい和音とともに舞台は混沌とした光と影に包まれ、まさに地獄へと引きずり込まれるかのような劇的なクライマックスが築かれた。音楽と舞台装置、そして歌手の圧倒的な存在感が一体となり、同オペラが持つ超自然的な恐怖と壮大なドラマを鮮烈に印象づけた。

レポレッロの「カタログの歌


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

従者レポレッロ役のフランチェスコ・レオーネは、深みのあるバスに軽妙な演技を織り交ぜ、主人と好対照のキャラクターを生き生きと体現した。とりわけ有名なアリア「カタログの歌」では、ジョヴァンニがこれまで誘惑してきた女性の数を国別に並べていくコミカルな場面を、明晰なディクションと巧みな語り口で鮮やかに描き出す。テンポの変化や語りのニュアンスを自在に操りながら、観客の笑いを誘う舞台運びは見事で、この場面の軽妙なユーモアが作品全体のリズムを一層活気づけていた。

気高さを体現したドンナ・アンナ


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ドンナ・アンナは『ドン・ジョヴァンニ』に登場する三人の女性の中でも、もっとも高い社会的身分を持つ貴族の女性であり、父を殺された悲劇を背負う存在である。ドンナ・アンナ役のイリーナ・ルングは豊かな声量と精密なコントロールで役のドラマを鮮やかに描き出した。高音域でも響きは安定し、フレーズの終わりまで緊張感を保った歌唱が印象的である。第2幕のアリア「私が残酷ですって?いいえ(Non mi dir)」では、流麗なコロラトゥーラと繊細なニュアンスによって、父の死という悲劇を抱えながらも気高さを失わないアンナの姿を浮かび上がらせた。

また、ドンナ・エルヴィーラ役のサラ・コルトレツィスは情熱的でリリカルな歌唱を披露。マゼット役の近藤圭、騎士長役の田中大揮も、それぞれの役柄を確かな歌唱で支えた。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ドン・オッターヴィオの端正な歌唱


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ドン・オッターヴィオ役のデイヴ・モナコは、柔らかな声質と端正なフレージングで気品ある人物像を丁寧に描いた。ドン・オッターヴィオは劇中でもとりわけモーツァルト的な抒情を担う役であり、流麗なレガートと繊細な音楽表現が求められる。第2幕のアリア「私の宝よ(Il mio tesoro)」では、軽やかなコロラトゥーラと明晰なディクションを備えた端正な歌唱を披露し、役の持つを印象づけた。

ツェルリーナの魅力と「薬屋のアリア」


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ツェルリーナ役の盛田麻央は、軽やかで透明感のある声で愛らしさを印象づけた。第2幕で傷ついたマゼットをなだめるアリア「薬屋のアリア(Vedrai carino)」では、優しく語りかけるようなフレーズと柔らかなレガートによって、素朴で親しみやすいツェルリーナの魅力を自然体で表現。舞台の緊張感が続く中で、温かな人間味を感じさせるひとときを提供した。

飯森範親の指揮が生んだ劇的効果


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

指揮の飯森範親は今回の上演に際し、モーツァルトの生き方と作品の思想的背景にも強い関心を寄せている。1781年、モーツァルトがザルツブルクの大司教と決裂して宮廷を離れ、ウィーンで「自由な音楽家」として生きる道を選んだことに触れながら、この作品を「自由」と深く結びついたオペラとして捉えている。

飯森は、歌手に寄り添う柔軟な音楽づくりを基調に、ドラマの要所で緊張感を引き締める。特に今回の上演では、レチタティーヴォ(語りの部分)の伴奏に通常のチェンバロに加えてチェロを加えるという編成を採用し、登場人物の感情や呼吸をより生々しく描き出す工夫も試みられた。音楽と言葉を密接に結びつけることで、人物の心理が舞台上に立ち上がる瞬間をより鮮明に浮かび上がらせようという手腕が心憎い。

モーツァルト・オペラの生命力


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

舞台を彩った新国立劇場合唱団の力強いパフォーマンス、そして東京交響楽団の引き締まった演奏も相まって、作品の劇的な魅力が存分に引き出された今回の上演。イタリア語の美しい響きと歌手たちの個性が融合し、モーツァルト・オペラの生命力を改めて実感させる一夜となった。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

■2025/2026シーズン
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ドン・ジョヴァンニ
Don Giovanni / Wolfgang Amadeus Mozart

日程:
2026年3月5日(木)
会場:
新国立劇場 オペラパレス

STAFF:

【指 揮】飯森範親
【演 出】グリシャ・アサガロフ
【美術・衣裳】ルイジ・ペーレゴ
【照 明】マーティン・ゲップハル

CAST:

【ドン・ジョヴァンニ】ヴィート・プリアンテ
【騎士長】田中大揮
【レポレッロ】フランチェスコ・レオーネ
【ドンナ・アンナ】イリーナ・ルング
【ドン・オッターヴィオ】デイヴ・モナコ
【ドンナ・エルヴィーラ】サラ・コルトレツィス
【マゼット】近藤 圭
【ツェルリーナ】盛田麻央
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

ドン・ジョヴァンニ
新国立劇場のオペラ公演「ドン・ジョヴァンニ」のご紹介。 新国立劇場では名作から世界初演の新作まで、世界水準の多彩なオペラを上演しています。