大野和士が描く新国立劇場『エレクトラ』――世界水準の歌手陣が結実させた新制作

2026年6月29日、新国立劇場オペラパレスでリヒャルト・シュトラウスの傑作オペラ『エレクトラ』新制作が幕を開けた。新国立劇場2025/2026シーズンのフィナーレを飾る本公演は、オペラ芸術監督・大野和士が指揮を務め、ヨーロッパで注目を集める演出家ヨハネス・エラートが日本初登場。約100分間休憩なしで繰り広げられる濃密な心理劇は、観客を終始息詰まる緊張感の中へと引き込んだ。

復讐劇ではなく「傷ついた家族の物語」


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

『エレクトラ』は、ギリシャ悲劇を原作に、父アガメムノンを母クリテムネストラとその愛人エギストに殺害された王女エレクトラが、弟オレストによる復讐を待ち続ける物語である。

ヨハネス・エラートの演出は、単なる復讐劇としてではなく、一族に受け継がれる暴力とトラウマの連鎖を軸に作品を読み解く。

舞台は閉ざされた一室。巨大なスクリーンには父アガメムノンの影や象徴的な映像が映し出され、ブランコやシャンデリア、古い電話、ぬいぐるみなど意味深な小道具が配置される。一見すると説明を拒むような舞台美術だが、物語が進むにつれて登場人物の精神世界と密接につながっていることが見えてくる。

映像や黙役を効果的に用いながらも、決して音楽を妨げることはなく、むしろリヒャルト・シュトラウスの濃密な音楽を立体的に浮かび上がらせる演出となっていた。

三人の女性が生み出す圧倒的なドラマ


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

今回の上演最大の魅力は、作品の中心を担う三人の女性歌手による圧巻のアンサンブルだろう。タイトルロールのアイレ・アッソーニは、この上演の成功を決定づけた最大の存在。近年ヨーロッパの主要歌劇場でエレクトラを歌い込み、「現代屈指のエレクトラ」と評されるだけの説得力を示した。約1時間45分、一瞬たりとも舞台の緊張を緩めることなく歌い続ける超難役だが、その声は最後まで疲労の色を見せない。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

彼女の真価は、圧倒的な声量だけではない。鋼のような芯を持つドラマティック・ソプラノを自在にコントロールし、憎悪、絶望、狂気、そして弟オレストとの再会で初めて垣間見せる人間らしい安堵まで、刻々と変化する心理を繊細なニュアンスで描き分けた。オレストとの認識場面では、それまで鋭利に張り詰めていた歌声が一転して柔らかな抒情へと変化し、エレクトラという女性の内奥に残された”娘”としての姿を鮮やかに浮かび上がらせる。そのコントラストが終幕の狂喜へ至る道筋をいっそう鮮烈なものとしていた。

妹クリソテミスを演じたヘドヴィグ・ハウゲルドも鮮烈だった。姉とは対照的に家庭や母となる未来を夢見る役柄だが、単なる”善良な妹”に終始することはない。リリックな資質を備えながら、劇場全体を難なく満たす豊かな声量と輝かしい高音を武器に、抑圧された環境でもなお生きようとする強靱な生命力を体現した。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

シュトラウスがクリソテミスに託した、数少ない明るい響きを持つ旋律は、ハウゲルドの透明感ある声によって瑞々しく歌われる。一方でエレクトラと激しく対峙する場面では、決して押し負けることなく、芯のあるドラマティックな響きで真正面から応酬し、この姉妹が対等な存在であることを印象づけた。終始重苦しいドラマの中で、彼女の歌声は束の間の希望を象徴すると同時に、復讐という呪縛から唯一逃れようとする人間の願いを代弁していた。

圧倒的な存在感を示したのがクリテムネストラ役の藤村実穂子。登場した瞬間から空気が一変。エレクトラとの長大な対話では、夢に怯え続ける王妃の不安、虚栄、母としての複雑な感情を、陰影豊かな声色と明晰なドイツ語で緻密に描写した。恐怖と威厳が交錯する人物像は、単なる悪役では終わらない人間的な厚みを感じさせ、本作屈指の心理劇を成立させていた。


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

オレスト役のエギルス・シリンスは、登場こそ短いものの作品全体の空気を一変させた。深々とした低声と揺るぎない存在感は、復讐者であると同時にエレクトラを救済する存在としての人格を感じさせ、姉弟再会の場面に束の間の抒情をもたらした。さらに工藤和真をはじめ、日本を代表する実力派歌手たちが脇を固め、新国立劇場ならではの充実したキャスト陣が作品全体の完成度を押し上げている。

大野和士×東京フィルが引き出したシュトラウスの極彩色


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

今回の上演を特別なものにした最大の要因は、大野和士と東京フィルハーモニー交響楽団による精緻な音楽づくりにあった。

『エレクトラ』は約110名もの大編成オーケストラを必要とし、オペラ史上屈指の難曲として知られる。膨大な音量と複雑なオーケストレーションを持ちながら、舞台上の歌手を決して埋もれさせてはならず、高度なバランス感覚が求められる作品である。

大野は複雑に絡み合うモティーフを鮮やかに整理し、それぞれの声部を明瞭に響かせながら、作品全体を大きな流れとして構築していく。オーケストラとの一体感も見事で、奏者たちはまるで一つの生命体のように息を合わせていた。弦楽器は厚み一辺倒ではなく機動力のある響きを生かし、複雑な和声を濁らせることなく描写。金管も力強さだけに頼ることなく緻密なアンサンブルを保ち、大編成とは思えない透明感を実現していた。

とりわけ印象的だったのは、ダイナミクスの巧みな設計である。極限まで抑えた弱音では、張りつめた静寂そのものが劇場を支配し、一転してクライマックスでは金管、打楽器、低弦が圧倒的なエネルギーを放つ。しかし、その最強奏でも音が粗くなることはなく、各楽器の輪郭は最後まで鮮明に保たれていた。圧倒的な音響でありながら透明感を失わない演奏は、大野が長年にわたりシュトラウス作品と向き合ってきた経験の深さを物語っていた。

終幕、復讐が成就する場面では、シュトラウスならではの極彩色のオーケストレーションが圧倒的な熱量で響き渡る。歓喜と狂気、解放と破滅という相反する感情が同時に渦巻く世界を、オーケストラは精密かつ鮮烈に描き出した。大野和士はこの作品を単なる復讐劇ではなく、人間心理を描く壮大な交響詩として響かせ、その世界を東京フィルが驚異的な集中力と機動力で具現化した。シーズンの掉尾を飾るにふさわしい、新国立劇場 近年屈指のオーケストラ・パフォーマンスだった。

復讐の先に残るもの


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

『エレクトラ』は父の仇を討つ復讐劇である。リヒャルト・シュトラウスの音楽は終盤、圧倒的なエネルギーで復讐の成就を描き出し、聴く者を熱狂へと導く。

しかし、この作品が描くのは復讐の達成だけではない。父を失った悲しみ、母への憎悪、罪の意識、そして一族に受け継がれる暴力の連鎖――登場人物たちは、それぞれ心に深い傷を抱えながら生きている。

100年以上前に書かれた作品でありながら、家族の断絶やトラウマ、憎しみが新たな憎しみを生むというテーマは、現代にも通じる普遍性を持つ。終幕では華々しい音楽の高揚感の一方で、復讐によって本当に救いはもたらされたのかという問いが静かに胸に残り、深い余韻を味わわせた。

シーズンを締めくくるにふさわしい新制作


撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

22年ぶりとなる新国立劇場での『エレクトラ』新制作は、世界水準の歌手陣と、大野和士が率いる東京フィルハーモニー交響楽団による精緻かつ圧倒的な音楽づくりによって、作品の魅力を存分に引き出した。

アイレ・アッソーニ、ヘドヴィグ・ハウゲルド、藤村実穂子を中心とした充実のキャストは、それぞれの人物像を鮮やかに描き分け、巨大なオーケストラとの緊密なアンサンブルによって濃密な音楽劇を創り上げた。

大野和士と東京フィルが生み出した緻密で色彩豊かなシュトラウスの響きは、この上演最大の聴きどころだった。22年ぶりの新制作は、『エレクトラ』という20世紀オペラ屈指の傑作の真価を改めて示す、シーズンの掉尾を飾るにふさわしい充実したプロダクションとなった。

■2025/2026シーズン新国立劇場
リヒャルト・シュトラウス
エレクトラ<新制作>
Elektra / Richard Strauss
全1幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉

日時:2026年6月29日[月]
会場:新国立劇場オペラパレス

STAFF

【指 揮】大野和士
【演 出】ヨハネス・エラート
【美 術】ハイケ・シェーレ
【衣 裳】ノエル・ブランパン
【照 明】オラフ・フレーゼ
【映 像】ビビ・アベル

CAST

【クリテムネストラ】藤村実穂子
【エレクトラ】アイレ・アッソーニ
【クリソテミス】ヘドヴィグ・ハウゲルド
【エギスト】工藤和真
【オレスト】エギルス・シリンス
【オレストの養育者】斉木健詞
【クリテムネストラの腹心の侍女】中村真紀
【クリテムネストラの裳裾持ちの女】杉山由紀
【若い下僕】糸賀修平
【年老いた下僕】河野鉄平
【監視の女】森谷真理
【第1の下女】金子美香
【第2の下女】谷口睦美
【第3の下女】清水華澄
【第4の下女】髙橋絵理
【第5の下女】田崎尚美

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

エレクトラ
新国立劇場のオペラ公演「エレクトラ」のご紹介。 新国立劇場では名作から世界初演の新作まで、世界水準の多彩なオペラを上演しています。